宮本亜門 インタビュー 創刊15周年記念インタビュー 第1弾 - 特集ページ - 演劇ポータルサイト/シアターガイド
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記念インタビュー 第1弾
宮本亜門

創刊間もないシアターガイドのインタビュー記事に日本人として初登場して以来、シアターガイド15年の歴史にたびたびご登場くださった宮本亜門さん。演出家としての歩みを振り返ってもらいながら、シアターガイドへの思いをうかがいました。

写真撮影=宮川舞子

とても心配した「シアターガイド」創刊

宮本亜門
宮本亜門 宮本亜門
▲第2号に掲載された宮本さんの写真 ▲創刊号(左)と第2号

―今日は、シアターガイドの創刊号と、宮本さんが登場された第2号をお持ちしました。どうぞご覧ください。

創刊15周年ですか? いやぁ……これは感動的だなぁ。すいません、見入っちゃっていいですか? (しばらく眺めて)ああ、公演情報欄に劇場の絵まで入っていたんですねぇ。シアターガイドが出た時に、日本に「PLAYBILL」(*)のようなものができたって、すごく驚きました。ただ、とっても心配したのも覚えています。大丈夫かな、もつかなぁって(笑)。だって、「シアター」って書いちゃってるから。映画とかテレビが入ってないじゃないですか。がんばってほしいなって祈るような気持ちでしたよ。

―創刊当初は雑誌というよりも、「PLAYBILL」のようなパンフレット的な体裁だったんですよね。創刊号には、国内の公演インタビュー記事はまだ載っていなくて、宮本さんにはこの創刊2号目に、日本人として初めて登場していただいているんですよ。

もう、本当にありがとうございます。皆さんによろしくお伝えください。

―(笑)こちらこそ、本当にありがとうございました。第2号が92年の3月に発売されて、その時は『サウンド・オブ・ミュージック』と『アイ・ガット・マーマン』(再演)の2作品についてお話をうかがっています。覚えてらっしゃいますか?

僕ね、記憶をいつも無くしてきてますから、この時のインタビューがどうだったかははっきり覚えてないんですが……ちょっとグっときますね、いろいろと。今もまだ演出家をやらせてもらっていることが本当にうれしいです。このころって実は演出家としては一息ついちゃった時期なんですよ。

#N前、シアターガイド(04年5月号)のロングインタビューに登場してくださったときに、演出家生活15周年を振り返る中で「演出家なんてやめてやる!」と落ち込んでいた時期に少し触れてましたね。そのころですか?

ええ。14、5年前から沖縄に行き始めて、沖縄に家を建てて、住み始めたのがそのころなんです。29歳で演出家になって、それこそ最初は「ダンサー上がりで演出は無理」だと言われていたところから、『アイ・ガット・マーマン』でいいスタートは切らせていただいたものの、作品を手がければ手がけるほど自分の中にプレッシャーを作ってしまったんだと思うんです。いろいろと実験的なこともしていきたかったんだけど、周りの人たちはどうも僕にブロードウェイ・ミュージカルのイメージを持っていたみたいで。それだけを背負っていくつもりはなかったから、大胆なことをやってみるんですけど、「亜門さん、それは違うよ」って言われたりして、悩んでいたのかな。

でも、沖縄に移り住んで、「演出って何だろう」って考えているうちに、「自分らしくしていてもいいんだ」と思い切れるようになったんです。「自分ができることを存分に楽しんでいいんだ」って。僕にとって楽しむということは自分の精一杯を出して、作品に集中していくこと。それだけはさせてもらおうと思って。それで、結果として観客が来なかったり、プロデューサーが仕事をくれなくなっても、しょうがないと。僕は演出家として“小さな大人”よりも“大きな子供”になりたいんです。今では不思議なオジサンになりましたが(笑)。

*シアターガイドはブロードウェイの演劇情報冊子「PLAYBILL」誌の提携誌として創刊。本家は劇場で無料で配られている小冊子だが、シアターガイドは創刊当時100円で販売された。現在の価格は400円。創刊時の内容は、国内の劇場の公演情報が中心で、「PALYBILL」のインタビューなどを翻訳して掲載。「PLAYBILL」との提携関係は05年10月末まで続き、現在は編集部が独自に集めた海外の情報を記事化している。

“我流”で“亜流”の演出家

宮本亜門

―宮本さんが演出家を志すそもそものきっかけは何だったんでしょうか?

いわゆる“引きこもり”になっていた高校生のころに、レコードで聞いた音楽に感動して、その感動を視覚化したい、と思ったんです。そういう仕事を考えた時に、演出家を意識したのは覚えています。ただ、どうすれば演出家というものになれるのか分からなかった。ダンサーをやったり、ジャズ・スタジオを作ってみたりしたのも、僕としては演出家になりたいと模索した結果なんです。とにかく、自分の頭の中のイメージを集団で表現して、人に伝えたいという思いだけはすごかった。

21歳からはブロードウェイ・ミュージカルを毎年観に行っていたし、その後、ロンドンにも遊学しました。2年間で700本以上の舞台を観たし、観られなかったものは舞台写真を一枚一枚、それこそ実際の舞台を透視してるんじゃないかっていうくらいに見てました。芝居、オペラ、ミュージカルに限らず、いろんなものを目に入れてきた。その経験がいつのまにか蓄えになっていたんだと、29歳で演出家デビューをした時に感じましたし、写真一枚さえも大切にしてきた思いの強さが、今も僕を支えてくれているんです。

昔も今も僕の中にあるのは、とにかく自分の興味があるものを、ジャンルを超えてクリエイトさせてほしいという気持ちだけ。演劇の演出家なのか、ミュージカルの演出家なのか、オペラの演出家なのか、それは僕にとってはどうでもいいことなんです。ただ、演劇とミュージカルとオペラは違うものっていうジャンル分けはやっぱりあるわけですよね。どれかのジャンルを極めた方が職業としても成り立つんじゃないかと思ったりもします。でも、僕はいろんなことに興味があるし、「○○○の宮本亜門」というふうに見られたくない。見方を変えれば、僕は本流にはいられない、亜流の演出家なんだと思います。

―宮本さんが亜流と言うなら、今は本流よりも亜流の方が求められているのではないですか?

そう言っていただけるよい時代になったと思います(笑)。僕は、いろんなクリエイターたちと仕事をする際に、僕自身が触発されるように最大限に五感、六感を磨いておこうといつも心がけてきましたけど、まだ舞台を創らせてもらえるということはその感性が面白がられているということなのかな。個人的な話になるけど、僕は結局、人がとっても好きなんですよ。あらゆる人間のあらゆる生き方に異常に興味があるんです。人が普段見せない表情を見せると、生まれたてのサルみたいに目を丸くして見る。電車の中でメイクをしている女の人がいたりすると、もうジロジロと。だって、人がメイクしているところなんて、普通見られないじゃないですか(笑)。

稽古場もそう。音楽が流れて、台本のせりふを発した途端に、俳優が普段閉ざしていた感情が出てくるじゃないですか。そこに興味が湧くんです。ただ、人に強い興味を示す一方で、僕自身の中には人とうまくコミュニケーションできないんじゃないかという恐怖感が常にある。僕がその恐怖感を克服できるのは、舞台をクリエイトすることを通してなんです。人間のいろいろな面を知りたい僕にとって舞台は最高の教材であり、今やコミュニケーションの大切な道具にもなっているんですよ。