特集|「ミュージカル映画事典」の著者・重木昭信に聞く【第1回】「ミュージカル映画との出会い」演劇ポータルサイト/シアターガイド
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「ミュージカル映画事典」著者に聞く

世界初のミュージカル映画「ジャズ・シンガー」(1927年)から「イントゥ・ザ・ウッズ」(2014年)まで、アメリカ・ミュージカル映画の全貌を紹介する本邦初の事典「ミュージカル映画事典」。アメリカの映画・テレビ作品を中心に、英・独・仏の主要作を含めた約3400作品を収録した本著が、どのようにして執筆されたのか、著者・重木昭信に聞いた。

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【第1回】ミュージカル映画との出会い

■長峯英子(以下、長峯):先ごろ「ミュージカル映画事典」(平凡社)を上梓した重木昭信氏にお話を伺います。初めに、今回の事典を書かれるまでの、重木さんご自身のミュージカルとの出会いから、どのように関わってこられたのかについてお聞きしたいと思います。初めてミュージカル映画をご覧になったのはいつごろでしょうか。

◇重木信昭(以下、重木):ミュージカル映画を初めて観たのは、中学生の時です。小学生の頃は、東映のチャンバラ映画や、親に連れられて歌舞伎を観ていましたが、「マイ・フェア・レディ」(1964)の映画が公開されて、これをたまたま観て夢中になりました。たまたま観たというのは、ポスターに惹かれて見に行ったからです。美しいイラストで描かれていて、最近はあまり使われていませんが、このオリジナルのポスターが良かったので、映画の内容も知らずに見に行ったわけです。

■長峯:日本でも大変ヒットした映画です。それにしても、中学生で観たというのは、特別な環境だったのですね。それをたまたま観に行って、夢中になった。この事典の原点は、中学生時代の「マイ・フェア・レディ」との出会いにあったのですね。

◇重木:父親が長唄をやっていたので、家庭で聴く音楽は長唄が多く、芝居といえば歌舞伎のことでした。まあ、歌舞伎も唄や踊りが入るので、ミュージカルの環境だったのかもしれません。「マイ・フェア・レディ」を観ると、オードリー・ペプバーンは美しいし、セシル・ビートンの衣裳デザインがまた良い。この美術的な美しさでノックアウトされただけでなく、歌もまたすてきだったので、いっぺんで夢中になりました。それまでは、レコードを聴くというと、クラシック入門の音楽や、長唄を聴いて育ったのですが、「マイ・フェア・レディ」以降はミュージカルのレコードを聴くようになりました。

■長峯:1964年というと東京オリンピックのあった年ですよね。

◇重木:その当時のことはよく覚えていますが、オリンピックで“外人”が世界中からやって来るというので、恥ずかしくないように、身なりもきちんとしないといけないと学校でも指導されました。日本も戦後の復興が進み、やっと世界に目を向け始めた時代で、それまで日本人が知らなかったことがどんどんと紹介されました。ミュージカルについても、本格的な紹介が始まったのは東京オリンピックのころでした。1963年に、江利チエミさんの主演で、初めての翻訳ミュージカル『マイ・フェア・レディ』が上演されたことも影響が大きかったと思います。それに加えて、ミュージカルを紹介する書籍や雑誌もたくさん出ましたし、日本コロムビアがレコードをまとめて出しました。NHKのラジオでも、確か「ミュージカル・アワー」という題名だったと思いますが、定期的に有名作品を紹介してくれました。そうした中でどんどん夢中になったわけです。

■長峯:ミュージカル・ブームが続いたのですね。

◇重木:映画の「マイ・フェア・レディ」に続いて、ジュリー・アンドルーズの「メリー・ポピンズ」(1964)や「サウンド・オブ・ミュージック」(1965)などが、続々と封切られました。私よりも上の世代の人は、1950年代のMGMミュージカルや、「ウエスト・サイド物語」(1961)を見てファンになったのですが、私は50年代の作品は名画座で追いかけて見たわけです。また、1960年代の後半には、大ミュージカル・スターのメリー・マーティンが、『ハロー・ドーリー!』のツアー・カンパニーで来日しました。ベトナム戦争の慰問へ行く途中、日本の宝塚劇場でもひと月間公演したものですが、これを観てブロードウェイ作品も観るようになりました。

■長峯:その時代のミュージカル映画は、日本でもヒットしましたね。また、『マイ・フェア・レディ』や『サウンド・オブ・ミュージック』は、日本の舞台でも上演され続けています。ミュージカルに心躍らせた少年は、大人になってからミュージカルの事典を2冊も書きました。1冊目の「ブロードウェイ・ミュージカル事典」を小社(劇書房)で出版した時にも、やはり膨大な資料を集めたとお聞きしましたが、どんな方法で資料を収集されていたのでしょう。

◇重木:大学1年生の夏休みに、当時は赤坂見附にあったアメリカ文化センターの図書館に通い、演劇年鑑やミュージカル関係者の伝記などを読みました。毎朝、図書館へ行き、一日中本を読むというのを、ひと夏やったわけです。その時にメモを取ったのですが、それだけでは十分ではありません。アメリカ文化センターにはミュージカルのレコードも置いてありましたが、種類が少なかったので、全体像は浮かびませんでした。そこで、輸入レコードを買い始めたのですが、今と違って簡単に手に入りません。神保町の古本屋で、米国の古いレコード雑誌を買い、そこに出ているレコード販売の広告を見て、片っ端から手紙で問い合わせて注文しました。ところが、直接買うにしても、かなりの送金手数料がかかり、当時は今よりもずっと税関検査に時間がかかったりして、苦労をしました。本も最初は丸善で注文したり、銀座のイエナ書店で買ったりしていたのですが、当時は円も安く、洋書はとても高くて、学生の分際ではお金が続かずに、悔しい思いをしました。

■長峯:手に入れたい本が、思うように買えなかったわけですね。

◇重木:それに、米国の古本は日本では買えません。そこで、お金を稼いでアメリカまで買い出しに行きたいと思うようになりました。もっとも、日本でも古本屋を丹念に回ると思わぬ掘り出し物を見つけることあります。今はなくなった六本木の古本屋で、アメリカの古い演劇雑誌が何十冊もまとめて売りに出されたことがありました。お金がなかったので、古本屋の親父さんにお願いして、2週間待ってもらい、何とか手に入れました。それが1964年に廃刊になった「シアター・アーツ」というアメリカの演劇雑誌です。家に持ち帰って一冊ずつ見ていくと、中から古いハガキが出てきました。あて名は真木小太郎、マイク真木のお父さんですね。確か日劇で舞台美術を担当していたので、アメリカの雑誌を取り寄せていたのだと思います。とにかくそうした苦労があったので、お金が欲しいと考えて、給料を貰える会社に入ろうと思いました。

■長峯:どのように会社を選んだのですか。

◇重木:当時は夢中になっていろいろと観ていたのですが、実はミュージカルだけでなく、歌舞伎やダンスも観るのが好きで、何をしたいのか腰が定まっていませんでした。一方、昔から自分でラジオをつくったりしていたので、大学では電気関係を勉強しました。卒業したのは1973年でしたが、その時にどの道へ進むのか、選択を迫られました。映画業界のことも頭をよぎったのですが、生活を安定させるために、先ずは大企業に就職することにしました。そうして入ったのが、大手の通信会社でした。

■長峯:会社に入ってからの、ミュージカルとの関係はどのようでしたか。

◇重木:入社4年目の1977年までにお金を貯めて、2週間の休暇を取り、ニュー・ヨークへミュージカルを観に行きました。『アニー』(1977)の初演を観たわけです。円が今のように強くない時代だったので、金銭面では大変でしたが、この時には舞台を観たり、大量の本を買い込んだり、美術館へ行ったり、大きな収穫がありました。ニュー・ヨークでは昔から文通していた手塚治虫のファンとも会うことができて、「鉄腕アトム」や白土三平の「忍者武芸帳」の英語への翻訳も手伝いました。ニュー・ヨークの名画座で、「オズの魔法使」(1939)を見て、その色の美しさに驚いたのもこの時です。日本で見たのは色の劣化したプリントでしたが、オリジナルのテクニカラーのプリントで見ると、色の鮮やかさが違う。それに、日本の映画館よりも色温度が高い(青みが強い)と感じました。そのころから、映画の技術面にも興味を持つようになったわけです。いずれにしろ、ニューヨークで買い込んだ資料が段ボール箱で20数箱ありましたが、それを使って「ブロードウェイ・ミュージカル事典」(劇書房、1984年)を書くことができました。さいわい初版は売り切れたので、1990年に改訂増補版を出しました。

■長峯:会社の仕事と両方やっていたのですね。

◇重木:会社の仕事はきちんとこなして、空いた時間で映画や芝居を観ていました。ところが、1980年代に管理職となってしまい、仕事上でも責任を負うようになり、時間的なやりくりに苦労しました。「ブロードウェイ・ミュージカル事典」の後は、すぐに「ハリウッド・ミュージカル事典」を書くつもりでしたが、時間をつくれないまま、会社の仕事が忙しくなってしまいました。会社の仕事も、本気でやると面白いもので、40歳ぐらいから20年間は会社で一生懸命仕事をして、成果も上がり出世もしました。1990年以降は、舞台も映画も面白い作品が減ったので、以前のように夢中にならずに済んだわけです。

■長峯:また本を書こうと思ったきっかけは、何ですか。

◇重木:60歳になると、会社の仕事はもう卒業なので、そのあと何をしようかと考えました。映画にはなっていませんが、舞台ミュージカルで『結婚物語』という作品があります。その中で年老いて引退する夫は、「子供たちが結婚したら、サックスを吹くぞ」と楽器の練習を目指します。私の周りのサラリーマンは、引退すると急に時間ができるので、社会貢献したり、語学を習ったり、旅行したりという人がいますが、私も何か、社会的に役立つような仕事がないかと考えました。

■長峯:やっと、「ミュージカル映画事典」の執筆にたどり着きました。

◇重木:昔から好きだったミュージカル関係の本の執筆ならば、好きな事ですし、やる気も出ます。日本でもミュージカルが多く上演されるようになったのですが、日本語でミュージカルを知ることができる基礎的な文献がそろっていません。アメリカ映画には、ギャング映画、西部劇、ミュージカルなどが、代表的なジャンル映画としてありますが、西部劇の本はそれなりに出ているのに対して、ミュージカル映画はきちんとした本がありませんでした。日本には戦前から見続けた映画評論家の方が何人かいらっしゃって、どなたかに書いてほしかったのですが、そうした方たちも鬼籍に入られたので、戦後生まれの私たちの世代が書く必要があるかなと考えました。

■長峯:「ブロードウェイ・ミュージカル事典」も、当時のアメリカには類書がありませんでした。日本でもブロードウェイの舞台作品が翻訳されて、盛んに上演されましたので、演劇好きや、演劇関係者、演劇記者の方にも、便利な本だと大変喜ばれました。今回の「ミュージカル映画事典」も類書がないようですが。

◇重木:恐らく、日本とアメリカではニーズが違うのだと思いますが、似た本はありません。アメリカでは個別の作品などはいくらでも見る機会があるので、全体の流れというか、歴史を説明した本が多いのですが、日本では作品そのものが知られていないので、「ブロードウェイ・ミュージカル事典」では、個々の作品を説明した本を書いたわけです。その後は、誰かが舞台ミュージカルの歴史を書くだろうと待っていますが、いまだそうした本が出てこないのが残念です。今回の「ミュージカル映画事典」はアメリカ以外の西欧でつくられた作品も含めて俯瞰したという点で、類書はないと思います。純粋に作品事典にしてしまうと、歴史の説明が抜けてしまうので、今回は歴史的な説明も少し付け加えました。その結果、かなり厚い本となってしまいました。

−−次回からは、「ミュージカル映画事典」がどのように書かれたか、そして事典の内容について、順次お聞きしていきます。

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プロフィール

重木昭信 プロフィール

■重木昭信(しげき・あきのぶ)
1951年生まれで、1973年から大手通信会社勤務。1988年から情報通信会社で大規模情報システムの開発に従事。2007年に情報通信会社代表取締役副社長。プロジェクト・マネージメントの功績により、2011年にプロジェクト・マネージメント学会賞を受賞。2012年情報サービス会社代表取締役社長。現在は会社顧問。中学生時代からミュージカルの歴史を研究し、芝邦夫の筆名でも著作を発表。主な著書に「ブロードウェイ・ミュージカル事典」(芝邦夫)劇書房 1984(増補版1991)、「ミュージカル映画事典」平凡社 2017

■長峯英子(ながみね・ひでこ)
演劇/出版/ワークショップ等企画、プロデューサー 劇書房主宰


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