特集|「ミュージカル映画事典」の著者・重木昭信に聞く【第3回】初期のミュージカル映画で活躍したスターたち演劇ポータルサイト/シアターガイド
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「ミュージカル映画事典」著者に聞く

世界初のミュージカル映画「ジャズ・シンガー」(1927年)から「イントゥ・ザ・ウッズ」(2014年)まで、アメリカ・ミュージカル映画の全貌を紹介する本邦初の事典「ミュージカル映画事典」。アメリカの映画・テレビ作品を中心に、英・独・仏の主要作を含めた約3400作品を収録した本著が、どのようにして執筆されたのか、著者・重木昭信に聞いた。

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【第3回】初期のミュージカル映画で活躍したスターたち

「【第2回】ミュージカル映画誕生の背景」はこちら

■長峯:1920年代末には、技術の進歩が映画のスタイルを変えました。1930年代に入るとどんな映画が多く作られたのでしょう。

◇重木:無声映画からトーキーへ、しかもミュージカル映画時代へと、突然に変わりました。当時の映画スターでそのまま対応できた人は殆んどいませんでした。そのため、数多くの舞台芸人たちがハリウッドへ呼ばれました。当時からブロードウェイ・ミュージカルの舞台作品は盛んで、そこで活躍する芸人は多かったのですが、現在のようにちゃんとした「台本」のあるミュージカルや、コンセプト・ミュージカル、ロック・オペラなどは未だ「発明」されていませんでした。上演されていた舞台作品の大部分はヴァラエティ・ショーのようなものだったので、活躍していたのは「芸人」たちでした。「台本ミュージカル」の元祖となった舞台版の「ショー・ボート」が初演されたのが1927年で、その時には歌なしのドラマだけが、1929年に無声映画として撮影されました。ところが、公開しようとした矢先トーキー映画が登場したので、慌てて2巻(20分ぐらい)分の歌や踊りを追加撮影して、部分トーキー作品として公開しました。日本でも部分トーキー版と、無声映画版の両方が公開されました。両方公開したのは、大部分の映画館にはトーキー映画を上映できる映写設備が未だなかったからです。

■長峯:どのような芸人たちが活躍していたのですか。

◇重木:有名な人を挙げますと、トーキー・ミュージカル映画の第1作に主演したのはアル・ジョルスンで、ブロードウェイで人気のあったスターです。1986年生まれですから、初めて映画に出た時には、40歳を超えたベテランでした。ブロードウェイに出る前は、白人が顔を黒く塗って黒人の真似をするミンストレル・ショーの劇団にいたので、映画でも黒人に扮して歌うミンストレル芸を見せています。ミンストレル芸は、アメリカの伝統的な芸だったので、1930-50年代には、エディ・カンター、ビング・クロスビー、フレッド・アステアを初めとして、ジュディ・ガーランドもミンストレル芸をやりましたが、1960年代の公民権運動以降はほとんど見られなくなりました。アル・ジョルスンの一番のヒット曲が『スワニー』ですが、日本では第16回の紅白歌合戦(1965)で雪村いづみがこの曲を歌い、アル・ジョルスンに敬意を表してだろうと思いますが、顔を黒塗りして歌い観客を驚かせました。

■長峯:ジョルスンの他にはどんなスターが登場しましたか。

◇重木:フレッド・アステアも舞台からの転向組です。舞台時代のアステアは、お姉さんのアデールと組んで踊っていましたが、アデールが結婚したので、映画界に入りジンジャー・ロジャースと組んで踊ったのが人気となり、30年代のRKO映画を支えました。30年代は不況だったので、映画会社もヒット作がないと経営が危うくなるため、何とかヒット作を出そうと必死だったわけです。RKO社はアステアとロジャースのミュージカル映画に支えられましたが、二人がコンビを解消した40年代になると経営が苦しくなり、結局は潰れてしまいます。ワーナー映画は、早くからトーキー映画を手掛けたファースト・ナショナル社を買収して他社に先行したので、30年代前半には随分と観客の心を掴んで儲けました。ワーナーのミュージカルで有名なのが、ブロードウェイから呼んだ振付師のバスビー・バークレイが作った一連のレヴュー映画です。ブロードウェイでは豪華なショーで有名だった「ジーグフェルド・フォリーズ」の映画版のような、「ゴールド・ディガース」という一連の作品を作っています。物語はありきたりですが、豪華なショー場面があります。バークレイが工夫したのは、レヴュー場面を映画的に撮ることです。映画の中でも舞台的な雰囲気を残そうとしたアステアとは正反対のアプローチでした。この一連のワーナーのレヴュー映画で主役を演じたのが、アル・ジョルスンの24歳年下の奥さんルビー・キーラーです。キーラーはブロードウェイではただのダンサーでしたが、夫のジョルスンと一緒にハリウッドに来て、大スターとなりました。

■長峯:ワーナー社はずっと順調だったのですか。

◇重木:バークレイ作品は好調で、ちょっと大胆な女性の下着姿なども入れて人気が出ました。また、ジェイムス・キャグニーに代表されるギャング映画も人気でした。キャグニーは、映画の中では女性にも容赦しませんでした。1931年の「民衆の敵」という映画の中では、朝食でうるさくおしゃべりするメイ・クラークを黙らせるために、食卓のグレープ・フルーツを顔に押し付けて絞ったりします。この相手役女優メイ・クラークの旦那さんは、舞台で有名な「ジーグフェルド・フォリーズ」の大スターだったファニー・ブライスの弟ですが、奥さんのメイが気に入らなかったようで、毎日時間を見計らい、映画館でこの場面だけを何度も見て喜んでいましたが、ほどなく離婚します。こうした、色気と暴力が少し目につきすぎたために、宗教団体から圧力がかかり、1934年の中頃から映画界は仕方なく自主規制を始めます。この規制は通称「ヘイズ・コード」と呼ばれています。この規制の実施により、バークレイ映画は色気がなくなり、ギャング映画からは暴力的なシーンが削られて、人気を失ってしまいます。しかし、過激な映像表現が禁止されたことで、ハリウッド映画は台本が充実するようになり、その後の芸術的な発展に結びついていきます。

■長峯:ヘイズ・コードがハリウッドに残した影響はどうなったのですか。1930年代の子役ブームとの関係はあるのでしょうか。

◇重木:人気の翳ったワーナー社に代わってヒットを出したのは、フォックス社でした。フォックス社は、「ヘイズ・コード」が適用された1934年に、当時6歳だったシャーリー・テムプルを主役にした作品を作り、大ヒットさせます。テムプルは歌も踊りも達者だったので、ミュージカル仕立ての作品にも多く出ました。1930年代後半はテンプルが大人気だった時代で、日本でも人気が出て、私の親などもよく見ていたようです。テムプルが演じたのは、不幸な境遇になってもくじけずに、素直な明るい性格で周囲の人々に幸せをもたらすという役柄でしたので、不況で苦しむ人々に希望を与えました。当時のヒット漫画で、後にミュージカルにもなった「アニー」そのままといってもよいかもしれません。こうした子役中心の映画であれば、「ヘイズ・コード」に問題にされることもなく、家族で見られる娯楽映画が作れるわけです。

■長峯:人気子役の登場は、他の映画会社にも影響したのではありませんか。

◇重木:子役のテムプルが当たったとなると、他社も同じ路線に進みます。最初に動いたのはMGMでした。「ヘイズ・コード」が適用されると同時に、14歳となったミッキー・ルーニーと契約します。14歳というと、子役としては大きくなりすぎているようにも思えるのですが、ルーニーは長く続いていた短編「ミッキー・マクガイア」シリーズの主演で、人気があり、しかも小柄で童顔だったため、MGMはルーニーを使って少年物の映画を作り始めます。日本にはあまり輸入されませんでしたが、MGM時代の代表作は「アンディ・ハーディ」シリーズです。ルーニーはいつまでたっても背が伸びなかったので、子役を演じていても問題なかったのですが、相手役には苦労します。ルーニーぐらいの年頃で、童顔であるのが相手役の条件です。当時MGMが抱えていた中では、ジュディ・ガーランドとディアナ・ダービンのどちらかが良いということになります。ジュディはジャズ調で歌い、ダービンはクラシック調なので、ジャズ調のジュディが選ばれます。実はガーランドの背丈はルーニーよりも6センチ低く、ヒールのある靴も履けましたが、ダービンの背丈はルーニーと同じかそれ以上だったので、相手役は難しかったのです。結局、いつまでも子役のルーニーにつき合わされて、ジュディもずっと子役をやらされます。1939年の「オズの魔法使」に出演した時には17歳だったので、立派な大人ですが、まだ少女役です。本当は大人の女役を演じたいのに、いつまでも子役ばかり演じさせられて、精神的なストレスが溜まり、だんだんと薬に依存するようになってしまいました。

■長峯:ジュディ・ガーランドといえば、娘が今も活躍しているライザ・ミネリですね。

◇重木:ジュディは、立派な美しい大人の女性を演じたいと悩んでいた時期に、新進気鋭の映画監督ヴィンセント・ミネリと出会います。そして、ミネリの監督で「若草の頃」(1944)に出演します。ジュディが22歳、ミネリは40歳ぐらいで、ミネリ監督は独身でした。ミネリは、昔から舞台の衣装や装置のデザインを手掛けていてので、とても美しい映像を撮ります。晩年に手掛けた「恋の手ほどき」(1958)を思い出せば、その美しさが目に浮かびます。MGMには、ジュディやエリザベス・テイラーなど、スタイルに問題のある女優、特に首の短い大女優が多かったので、衣装デザイン部や撮影者には苦労が多かったようです。それでもミネリ監督は「若草の頃」でジュディを本当に美しく撮影します。路面電車に乗って歌われる『トロリー・ソング』の場面が有名なのですが、うっとりするほど美しくジュディが撮れています。1904年に開かれたセント・ルイスの万国博覧会が背景となっていて、女性陣は長い巻き毛につばの広い帽子という姿ですが、ミネリ監督はジュディを美しく撮るために、一人だけ帽子を被らせませんでした。完成した映画を見たジュディは、自分の美しさを引き出してくれたミネリに恋をしてしまい、すぐに結婚、1946年3月12日に生まれた娘がライザ・ミネリです。ちなみに、歳は違いますが、私はライザ・ミネリと同じ誕生日なんです。

−−次回は、ミュージカル映画黄金期のスターたちについて伺います。お楽しみに。(5月24日更新予定)

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プロフィール

重木昭信 プロフィール

■重木昭信(しげき・あきのぶ)
1951年生まれで、1973年から大手通信会社勤務。1988年から情報通信会社で大規模情報システムの開発に従事。2007年に情報通信会社代表取締役副社長。プロジェクト・マネージメントの功績により、2011年にプロジェクト・マネージメント学会賞を受賞。2012年情報サービス会社代表取締役社長。現在は会社顧問。中学生時代からミュージカルの歴史を研究し、芝邦夫の筆名でも著作を発表。主な著書に「ブロードウェイ・ミュージカル事典」(芝邦夫)劇書房 1984(増補版1991)、「ミュージカル映画事典」平凡社 2017

■長峯英子(ながみね・ひでこ)
演劇/出版/ワークショップ等企画、プロデューサー 劇書房主宰


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